友人のわんこが亡くなられた。
14歳と言うのは、人間に換算すればご長寿で、それはもう立派な大往生であるには違いないのだが、
イヤでも彼らより長生きしてしまう我々からしてみれば、なんて短命なのだろうと言うのが実感だ。
人間の時間の中で、彼等の時間が一緒に流れる。
見る景色は同じなのに、感じる季節は違うのかもしれない。
うちにもでかいわんこがいる。
今年6歳になる。
常に考えている。
この子が最後を迎える時のことをだ。
少しずつでも、覚悟を積み重ね、その日に備えようとしている。
無駄と知りながらしている。
人間、ある程度まで来ると、死と言うものにイヤでも直面せねばならない。
身近な人を見送った後、何か、変わったような気がするのだ。
死を恐れると言うのは人の、生命の本能であるが、最近はこんな風にも考える。
残す側に、悔いを残してはいかんと考える。
人間だけが、死を備えることができるのだろう。
自分の墓を用意し、葬式の手順を書き示しておく人がいる。遺言をしたためる人もいる。
覚悟は、先逝く側にこそ必要で、見送る側にせめて負担を、少しでも軽くしておこうと。
そんなことができるのは人間だけなのだろう。
何事もなければ、オイラはわんこを見送らねばならない。
ピッタリと寄り添うこのふにふにな重さも、顔中舐めてくるオッサン顔の愛嬌も、
人の口からも食い物を奪おうとしやがる意地汚さも、いずれは過去の物となる。
友人はもっと遊んでやればよかったと悔いている。
オイラも、悔いるだろう。
いっぱい悔いるのだろう。
すまなかったと、何度も思うのだろう。
これまでに二人、身近な人を見送って、どちらの場合にも同じ事を考えてしまうのだ。
仕事で半日、家に一匹で残されるわんこ。
半日は、彼等には1日以上の時間に等しい。
だからちぎれんばかりにしっぽを振って出迎える。
うれしいな、うれしいなと繰り返し。
愛犬を亡くした友人のことを思う。
涙が出る。
悔いている、その気持ちに泣けてくる。
喪失感の大きさに、泣けてくる。
そしてオイラは友人のメッセージに従おうと思うのだ。
本日から、わんこのおやつのレパートリーが一つ、増える。
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